本当に尾瀬に生息しているのか?
福島県におけるホソミモリトンボは、1956年に尾瀬沼で安藤尚氏によって採集されたのが最初で(昆蟲, 24: 18 )、続いて宮川幸三氏が1958年に尾瀬沼東岸で記録しています (新昆虫, 11: 35 )。また、同年丸山彰氏が燧ヶ岳 (新昆虫, 11: 37 )で、さらに 1981 および1990年に星一彰氏が共に燧ヶ岳からの目撃例を報じています( 月刊むし, 12: 21-23; 福島生物, 33: 26-27 )。現在、尾瀬の福島県側からの成虫の記録はこれが全てで、それ以後の追加記録はありませんでした。なお安藤氏の採集したホソミモリトンボの標本は筑波の科博にある朝比奈コレクションの中に大切に保管されています(写真下)。
近年、福島県側ではレッドデータ関連で新たに調査をおこなったものの、成果は得られませんでした。私も数回、尾瀬および周辺でホソミモリトンボの探索を行いましたが、その痕跡すらをも見出すことが出来ませんでした。正直、本当に今でも生息しているのか?そんな思いが年々強くなっていました。
ところが、ここに彗星のように現れた青年がいました、太田祥作さんがその人です。太田さんは只見町ブナセンターの職員として激務をこなしながらも尾瀬にせっせと通い、その驚くべき忍耐強さを発揮して、ついに尾瀬におけるホソミモリトンボの羽化場所を突き止め、現在でも尾瀬沼周辺に広く生息していることを明らかにしたのでした( TOMBO, 62: 116-122 )。
福島県産を示す数少ないホソミモリトンボの標本(科博蔵) さあこうなると、成虫はどこで活動しているのかが問題になってきます。度重なる調査でもその影すらも拝めていませんから。私も太田さんの発見後、2度ほど成虫の姿を確認するために尾瀬を訪れましたが、相変わらず何も得られませんでした。成虫は羽化後どこに飛んで行ってしまうのか?全くもって不思議な話です。
尾瀬決戦を前に下調べ
かつて長野県の生息地でこのトンボを探した時はこんなに苦労せずに出会えたのですが、尾瀬では何か見当違いな場所をさがしていたのではと思えてきました。そこで尾瀬に再挑戦する前にもう一度このトンボの生息地の環境と生態を見ておきたいと、あらためて本年7月に既産地を訪ねてみました。以下はその時の状況です。
現地には早朝に到着しましたが、気温が低く午前9時前になって、ようやく♂が複数いきなり湿地の上を飛び始めました。午前中、飛び方はかなり広範囲(20-30m四方)を高さ1m前後で緩やかに飛び回り、なかなかホバリングしてくれません。そのうち♀が産卵に飛来し始めました。♀は小さな水溜まりに高速で飛来すると、一瞬せわしく周辺を飛び回った後に、いきなり草が密生した場所に潜り込み、わずかに水面が見えるような狭い場所に産卵を始めます。飛来した♀を良く観察すると、適当な水域を探し当てるまで、次々と小さな水溜まりに降り立って好みに合う場所を探します。このために草丈が30-50cmぐらいのスゲ科植物の草丈すれすれを飛びながら次々に小さな水溜まりに降りて確かめては再び舞い上がる独特の飛び方をします。産卵は草が覆いかぶさる様な10-20cm四方の小さな水溜まりに降り立ち、打水産卵を行いますが、一ケ所での産卵時間は短く、次々に産卵場所を変えて産卵します。また産卵場所はいずれもスゲ、カヤツリグサ類が覆いかぶさるよう密生していて、飛翔に支障をきたす場合が多く、良く産卵中に草に止まって休息する姿を目にします。尾端を水の中に入れたままの状態もあって、この場合産卵しているかも知れません。
水溜まりの水深は非常に浅く、これらの水源は雨水が大部分であると考えられ、気象条件によっては容易に乾燥が進み、水溜まりは消失する場合があると思われました。湿原として現在は、ほとんどが中間湿原で乾燥と植物遺体の堆積が進み陸地化して行く部分と、一部の地下水位が高い場所はミズゴケによる高層湿原化していく過程にあるものと思います。
スゲ類の遺体の堆積で未発達ながら谷地坊主状のものが無数に見られる 谷地坊主状のスゲ群落の間に水溜まりが出来て、ここが産卵域となる
同上、水溜まりにはカヤツリグサ類が繁茂する
100mmマクロしか持っていかなかった、失敗! 20年ぶりのホソミモリトンボ、はたして尾瀬で出会えるか いるいる、産卵している!
こんなにイネ科植物が密生していて翅は痛まないのか?
とにかく見にくい。焦点が合わない! 産卵は体力の消耗が大きい、時々産卵中に草に止まって休む 午前中に交尾は2回観察しました。産卵に飛来した♀(♀が自ら交尾を目的に飛来しているのかは不明)はオスに確保されてリング状になって湿地内を2mほどの高さでゆっくりと飛び回り、やがてカラマツの枝に止まり、交尾を続けました。しかし、意外と神経質で静止してから2、3分で移動してしまいました。以前塩尻市の生息地では湿地内の灌木は背が高くなく、目の高さに交尾ペアが止まることが多かったのですが、ここはカラマツが4mほどの高さがあって、結構高い位置に止まるようでした。午後1回交尾を観察しましたが、これも3m以上高い場所に止まりました。交尾は35分継続しました。
何とか撮れた交尾、このペアは数枚シャッターを切った直後に飛び去ってしまった
今回、あらためてホソミモリトンボの生息地を見てきて、また、これまでの経験から、本種の生息環境を考えると、いわゆる大小多数の池塘が見られるような高層湿原には生息せず、かなり草丈のあるスゲ類が密生して、その生え際には小さな水溜まりがいたるところに点在するような中間湿原(場合によっては低層湿原的要素の多い湿地も)が生息地になると言えます。この点についてはすでに曽根原今人さん(Tombo, 28:23-30)や吉田雅澄さん(Aeschna, 30:11-16) が長野県の産地における生息地の環境を詳細に報告されています。
どうも私はこれまで尾瀬では少し環境的に本種の生息に適さない場所(より高層湿原を重点に探したかも)を探していたかもしれません。
ともあれ予定している尾瀬のホソミモリトンボ成虫の探索は逆に言えば、明るく解放的な中間湿原を探せば何らかの成果が出るかも知れません。
いざ決戦、出陣!
7月下旬、いよいよ尾瀬へ、と言っても今回は尾瀬ヶ原ではなく尾瀬沼一帯の探索です。尾瀬へのルートは何本かあるのですが、福島側からだと桧枝岐村御池から沼山峠へのルートとなります。一般車は御池の駐車場において、そこからシャトルバスで20分ぐらいで沼山峠登山口に着きます。ここから尾瀬沼までは40~60分です。
大江湿原中ほどに太田さんが羽化を見つけた地点があります。はたして水溜まりはあるのだろうか。期待が高まります。時間はまだ7時半をまわったところですから、まだホソミモリトンボは出てこないはずです。この時期はニッコウキスゲの時期は終わっているのですが観光客が非常に多く、特に夏休みのサマースクールで尾瀬を訪れている中学、小学生のグループと頻繁に行き会いました。
さて、発生地ですが、残念ながら写真の通りスゲ原が広がってはいますが、全く水溜まりがありません。太田さんによると昨年は羽化が確認できなかったそうです。やはり、ミズゴケが発達した湿地では多少の雨で水溜まりは出来ず、安定的に♀が飛来して産卵はおこなわないのだと思いました。かつては一面、水溜まりがあって、産卵や繁殖に適した中間湿原的な様相を呈した大江湿原だったのでしょうが、今日、湿地の多くの地域は高層湿原に代わり、じょじょに乾燥化していて本種の生息には不適になっているに違いありません。こう考えると、ホソミモリトンボはいずれ尾瀬沼周辺から居なくなってしまうかも知れませんねえ。
水溜まりが全く無い大江湿原、年々ミズゴケの厚さとスゲの遺体の堆積が増えている
大江湿原が今年もこの時期に乾燥していたことは本当にショックです。またおなじことの繰り返しになるんじゃないかと不安になってきます。今回は尾瀬沼をとりあえず一周してみて、この目で中間湿原はあるのか確認してみるつもりでしたが、のっけからこれだと、、、、。尾瀬沼の北端で右に折れて沼尻へ向かいます。道中はオオシラビソの樹林帯の中を軽いアップダウンを伴って進みます。何か所か湿地を横切りますがパッとしません。多分生息はしていまいと、ならば過去の記録はどこで得たものなのだろうと考えている内に沼尻に到着しました。分岐から約30分です。この先は延々と下って尾瀬ヶ原に至ります。私は左に折れ湖を周回します。
沼尻に来ると、ようやく尾瀬特有のトンボが見れれるようになります。カオジロトンボを始め、ムツアカネさらに数は少ないのですがルリイトトンボも運が良ければ見ることができます。ここのカオジロトンボは非常に小型で、今の時期が繁殖盛期となっています。一方ムツアカネは羽化時期です。この一帯の湿地は完全な高層湿原でホソミモリトンボの成虫を見ることは難しいように思えました。ただ産卵はあるのかも知れません。♀は放浪性が高いですから。
尾瀬沼南岸にはそれらしい湿地は無く、どこに居るんだろうと、だんだん気が滅入ってきます。やはり今回もだめかと、足どりもじーさんのよう(実際ジジイだ!)に重くなってやっとの思いで尾瀬沼ヒュッテに到着です。これで尾瀬沼を一周したわけですが、ラオスで痛めた踵が痛みだし、こうなると踏んだり蹴ったりです。
予報では昼から雷ですので、もうあきらめて帰るしかありません。脚を引きずるようにヒュッテを後にして、トボトボと再び木道を歩き始めた時の事です。ふと、右手の林縁に接している湿地の上をエゾトンボが飛んでいるのに気づきました。やややあ!いたぞ、いたぞいたじゃねーか!幻を見ているような気分になりました。すぐにカメラで追いますが、動きが激しくて追いきれません。気が付けば複数個体がいるようです。そのうち2頭が争うのが目に入りました。ハッとしました。片方が小さいのです。というよりほっそりしているのです。改めて湿地の上を観察すると、最初に見つけた個体は林縁部に沿ってのみ縄張り飛翔していていました。一方の個体、これは少なくとも3頭いて、いずれも湿地の中央部のみで行動しているのが分かりました。こっちがホソミモリで、林縁部はエゾトンボでしょう。
1頭の♂が目の前数十センチのところをゆっくりと「良ーく見とけ!」と言わんばかりに木道に沿って飛んで行きます。そのスマートでやや小柄な体型は、まさに夢にまで見た尾瀬のホソミモリトンボで、万感極まって思わず、得意の老人病の涙があふれてきました。しかし湿地内部で縄張り飛翔している個体は木道から約10m以上離れているためになかなか写真を撮ることが出来ません。そこで先に湿地の状態を確認してみました。
ホソミモリの飛翔が見られた場所、中央部一帯で縄張り飛翔する
上に示した写真のように、ここは水量が多い湿地で、ミズゴケの発達度はそう高くありません。スゲ類が優占種となっていて、またカヤツリグサが水面に密生しています。ミズバショウも混生していて、中間湿原というより低層湿原の雰囲気が強く感じられました。産卵に適した小さな水溜まりが無数にありました。
一方2、3頭いる♂のホソミモリはなかなか近くまで寄ってこないため、多分福島県で最初になるであろう本種のシャープな写真は結局撮れませんでした。ところが、♂の写真を何とかと頑張ってると、いきなり♀が飛来してきて、よりによって木道わきの水溜まりに産卵を始めたではないですか!これは潜在何時遇のチャンスとばかり、しかし足元なのでレンズの操作につい手間どりバタバタと動いたせいか、♀はすぐに飛び去ってしましました。あーあ!おかげでこの写真もイマイチの出来となりました。
一番上はトリミングしたもの、全て同一個体(25/7/2025、尾瀬沼ヒュッテ付近) ホソミモリトンボの産卵(トリミング)、トレードマークの腹部側面のオレンジ紋が見える
打水産卵した瞬間、上からではさまにならない(25/7/2025、尾瀬沼ヒュッテ付近)
今回もだめかと完全にあきらめていたところ、自分としては満塁逆転ホームランを打ったような満足感を得ることが出来ました。30年前に初めてホソミモリトンボを求めて尾瀬に来て以来、毎回収穫はゼロ。ここでようやく福島県産トンボで最も難攻不落の座を誇っていた本種の写真と生態の知見を得ることができたことは本当に奇跡のようです。これも尾瀬で確実に現在でも生息していることを知らしめてくれた、若い太田祥作さんのおかげに他なりません。
ですが、今回をも含め、尾瀬沼周辺部で確実に本種の生殖行動を見ることができるのは1ケ所にすぎないと言うことは、たとえそれが湿原の止めることができない変遷の結果であるにせよ、近い将来このトンボが姿を消してしまうような気がしてなりません。木道からまだうかがい知ることができない地域にまだまだ多くの隠れた生息地があることを願いたいと思います。