2022年9月23日金曜日

Aeshna mixta の覚書Ⅰ(このブログはパソコンでご覧ください)

 ヨーロッパマダラヤンマ(とりあえず仮称で)の生態について整理する

 以前述べたロシアの研究者たちの論文では、日本産マダラヤンマと欧州産マダラヤンマの違いを、形態と生態さらに遺伝的な面から、それまでの欧州での研究例を多数引用しながら詳細に比較検討しています。改めてそれらを見ると、今更ながらヨーロッパの研究者・同好者たちの物にとらわれない自由な発想の下、観察・研究に取り組むその情熱には正直驚かずにはいられません。

 マダラヤンマの生態については、まだまだ分からない点が多くあります。例えば羽化後の成虫の行動などはほとんど分かっていませんし、♀の交尾・産卵の時期がどうして♂の出現時期と大きく隔たるのかなど、さらに北海道と本州の生息地が緯度的に大きく隔たるにもかかわらず、出現時期がほぼ同じであり、一部では北海道が本州よりも逆に1ヶ月近く早まることなどが挙げられます。

 こうしたマダラヤンマの諸問題を究明するにあたって、ヨーロッパマダラヤンマの生態を理解することは逆にマダラヤンマの生態解明に何らかのヒントを得ることができるかも知れません。そこで以下に少しずつヨーロッパマダラヤンマの最新の生態を整理していきたいと思います。まずは分布。

1 ヨーロッパマダラヤンマの分布
 Onishko et al., (2022) を参考に、さらに最新の記録を加えて大雑把な分布図を作ってみました。彼らにならいマダラヤンマの分布も示してあります。この分布図を見ながらいろいろ妄想したいと思います。
                    
                                   Aeshna mixtaAeshna soneharaiの分布図. 赤がmixta, 青が soneharai

 現在、ヨーロッパマダラヤンマは西ヨーロッパからカスピ海西岸部に広く分布していて、西ヨーロッパ、英国では普通種となっています。しかしスイスなどの高標高の地域には分布が希薄です。また、カスピ海東地域の中央アジアの国々、さらに中東にかけては、数えるほどしか記録がありません。確かに地理的・気象的な要因で分布が絶えていることも考えられるでしょうが、この地域には調査する人がほとんどいないのが主たる原因ではないかと思います。今後記録がでてくるのではないでしょうか。
 一方、スカンジナビア半島三国には比較的近年、2000年代初期に記録され始め、フィンランドでは2002年に対岸のラトビアのリガ方面から7-8月上旬にかけて、南東の風が吹く午後に、集団飛来がドップラーレーダーで観測されたそうです。また、本種の英名の由来どおり、英国には1940年代に大陸から集団飛来が観察され続け、現在では2000年にアイルランド、2004年にはスコットランドに分布を広げました。現在でも毎年、大陸からはかなりの数が集団飛来しているようです。
 このトンボの分布域は分布図からおおよそ北緯30°から60°、東経8°から56°の範囲内であることが分かります。しかし北アフリカとスカンジナビアではかなり気象条件が異なると思うのですが。したがって生活環が異なる可能性がありそうです。

2 成虫の発生状況
 極めて広域に分布する本種の発生時期は、地域によってかなり異なります。分布北限のノルウェー沿岸部では、7月下旬から10月まで見られ、8月が最盛期となるようです。中央ヨーロッパでは7-8月に羽化、産卵は8-9月で日本のマダラヤンマ(Aeshna soneharai)の発生状況より若干早く推移するようです。多くの文献やWeb情報からA. mixtaは卵越冬で1年1世代完結型であるとされていますが、ヨーロッパ南部や北アフリカになると、幼虫越冬になることが分かっています。
 スペイン南部マラガ地方では一般に6月上旬に羽化した後、生殖前休眠(約4か月間)があって7-8月は非常に目につきにくくなり、9-11月にようやく繁殖行動が見られるようになるそうです。12月にもかなりの個体がみられるそうです。ここでは最小齢の幼虫で越冬して、4月にはすでにF-1齢幼虫に成長し、早い年には何と4-5月に羽化が見られるそうで、驚きです。さらに北アフリカのアルジェリアでは5月に羽化した個体は5ヶ月も休眠した後、10月から12月にかけて繁殖行動をおこなうとされ、こうなるとA. mixtaは一概に寒冷地を好む種とはいえないように思えてきます。
 オランダにおける本種成虫の飛来消長の図がありましたので、参考に拝借しました。
  
       オランダのミッデンブルグ市公園におけるA.mixtaの飛来消長 (Haak, 2019より)
 
 これを見ると、7月上旬には極少数ですが、飛来があるようです。また、1週間おきにコロナ感染グラフのように山が8-9回見られるのも興味を引きます。オランダでは繁殖が9-10月という報告もあることから、9月中旬から10月にかけての個体数が、この公園で見られる繁殖個体の頭数と読み替えることができるかも知れません。そうすると、それ以前のほとんど大多数の個体はただこの公園を通過して行った、いわゆる移動個体だったと言えるのでしょうか。
 ノルウェーで成虫が初めて確認できるのは7月下旬ですから、いくら幼虫の生育スピードが速い本種でも当地で7月中下旬に羽化するとは思えません。おそらく、それらの時期の個体は大陸側から北上したものなのではないでしょうか。

つづく
                  






























2022年9月7日水曜日

安定同位体を用いた飛来ウスバキトンボの原産地の推定

日本に飛来するウスバキトンボの移動の実態

 ウスバキトンボは言わずと知れたコスモポリタンな種で、国内では基本的に越冬できず、極一部、南西諸島において幼虫が越冬可能であることは周知の事実です。ではこのトンボはいったいどこからやって来るのか?長年トンボ界での懸案でもありました。古くは南洋の定点観測船や、洋上の石油採掘プラットホームなどで成虫が採取されたりして、その目撃・採取傾向から東南アジア方面から飛来するのではという推測がなされていました。現在でもそれ以上の進展はなく具体的な証拠もなかなか見つからず、憶測の中でのウスバキトンボの移動が論議されているのが現状です。

 2021年に発表された「水素安定同位体を用いて明らかになったウスバキトンボの日本への長距離移動」(タイトルは筆者訳なのでちょっと😓)なる論文に目が留まりました。水素安定同位体、聞きなれない名前です。なんでも水素原子には陽子、電子の他に中性子の数の違いから質量の異なる3つの水素があって、これらをまとめて同位体と呼ぶそうです。水素は中性子(質量が大きい)の数で軽水素(中性子を持たない)、重水水素(中性子が1個)および三重水素(中性子が2つ)に分けられ、自然界中の水素のほとんどが軽水素で占められ、重水素が次に、三重水素はごくわずかしかないそうです。三重水素は福島原発事故で問題になっている汚染水のトリチウムのことで自然崩壊し放射線(β 線)を放射することから、放射性同位体との呼ばれ、自然崩壊しない軽水素と重水素を安定同位体と呼ばれています。

 前置きが長くなってしまいます。でもこの辺を理解しておかないと論文の主旨がわかりません。私は理解するのに結構苦労しました😭。
 さて、それではその水素の安定同位体(軽水素と重水素)をどうすんだい、です。水素は水を構成する元素ですから水循環を通して最終的に私たちの体、もちろんトンボにも取り込まれています。ここで、軽水素と重水素の比率(水素安定同位体比)に注目すると、地域によってその比に差が見られます。軽水素は蒸散によって減少する特性を持っています。また降雨に含まれる水素同位体比は緯度が高くなると重水素が減少します(緯度効果)。さらに標高や降水量などの地理的特性によっても大きく水素安定同位体比は異なると言います。
                                                          
                          推定された降水量で重み付けされた年間平均降水の水素安定同位体比の世界分布図
     Ehleringer et al., (2008) Environmental Science and Technology, No. 26 Environmental Forensics.より

 現在、世界の年間降水量の推定のモデルを基にした各種の元素の分布推定が行われていて、水素についても上の図のとおり水素安定同位体比の世界地図が示されています。この様に同じ水素でもその構成比は地域によってかなり異なることが分かります。

 さてウスバキトンボですが、幼虫は降雨による影響が最も大きい池沼で育ちます。ですからヤゴはその地方の特有の水素安定同位体比を示す水素を体に取り込んだエサを食べ、成長して羽化することになります。しかし、成虫が羽化後移動して新たな餌を食べ続けたら、エサとなる昆虫が育った地域の異なった構成比の水素がそのまま体内に取り込まれてしまいます。ウスバキトンボに含まれている水素を分析してその水素安定同位体比を調べて、羽化した地点を割り出そうとするならば、羽化後成長する部位や組織はサンプルとしては使えないでしょう。羽化時点で新たな水素を取り込まない部位はどこか?それは翅です。翅は羽化後、体液の循環がストップして中にあった体液は胸部に吸収されて無くなってしまします。
 論文では日本各地のウスバキトンボを季節ごとに集めて、翅に含まれている水素安定同位体比を分析し、上に示したような世界各地の水素安定同位体比のデータと突合せてその羽化場所を探ったものです。
 内容は以下の様に要約してありました。
 2016 年 8 月から 9 月に国内 6 地点で捕獲された57個体、2017 年 4 月から 11 月まで捕獲した132個体を用いて、それぞれの翅に含まれている安定水素同位体(δ2H)を分析したところ、
1 その値からサンプルの大部分が国外から移動して来た個体であると判断できた。
2 日本起源と思われる個体はその年の11月にのみ出現し、日本産は平均して海外から移動        
  して来た個体よりが体重が有意に軽かった。
3 海外から飛来した個体の原産地は、インド北部やチベット高原など、はるか西の広い地域           の可能性があった。
4 シーズン後半は日本近郊の中国中北部や朝鮮半島からであった。
5 4 月のサンプルについて最も狭義的な解釈は南部の地域であるミャンマー北部から中国南 
    部またはおそらくボルネオ・スラウェシであることを示唆させた。
 と、ありました。こうして論文を見てみるとかなり遠方かつ広範囲から飛来していることが明らかになり、しかも一律に同じ地域からの飛来ではなく、季節性があるのにも驚きました。今回の論文は初めて原産地の地域(国名)を明らかにしたことで、これまでウスバキトンボの謎だった海外飛来説を初めて証明したことになり、これは画期的なことだと思います。また東南アジアよりはるか西方からの飛来が明らかになったことは、改めてこの論争に一石を投ずることになったと思います。トンボの世界もそう単純じゃないということですね。

 ウスバキトンボの長距離移動については、すでにBorisov et. al., (2020) によって水素安定同位体比を用いた、中央アジアのウスバキトンボの飛来元の研究がおこなわれていて、それによればタジキスタンにおける5月のウスバキトンボは東アフリカからの飛来種であり、その後それらから羽化した個体群が10月まで国内でみられる。そしてその一部は秋に北インド、インド洋を飛び越えモルディブに達し、さらに故郷の東アフリカまで戻る約14,000kmにもおよぶルートを超長距離移動していると予想しています。
                    
         ウスバキトンボの東アフリカータジキスタン―モルディブ―東アフリカを周回飛行するルート
         Borisov et. al., (2020)より    

 近年のDNAの応用やこうした物理・化学分析技術の進展がどんどんトンボの世界にも広がって、これからも多くの面白い発見があるものと思われ、トンボ屋としては期待が膨らみます。願わくばぜひ、日本人が中心になってやってほしいですね。
 
 なお、安定同位体の分析は民間でも請け負っていて、1点が1万5千円ぐらいです(前処理は別料金)。こうした環境化学分析の中で安定同位体分析装置はべらぼうに高いにもかかわらず、意外に分析代が安いのには少々驚きました。安定同位体を用いて物事を評価する分野は非常に多くなってきて、結構需要があるのでしょうね。トンボに限ってもいろいろ思いつくところがあるんじゃないでしょうかね。

引用文献
 Hobson et al., (2021) Long-Distance Migration of the Globe Skimmer Dragonfly 
          to Japan Revealed Using Stable Hydrogen (δ2H) Isotopes. Environmental      
          Entomology, 50(1), 247–255. 
 Borisov et. al., (2020) Seasonal Migrations of Pantala flavescens (Odonata; 
         Libellulidae) in Middle Asia and Understanding of the Migration Model in the
         Afro-Asian Region Using Stable Isotopes of Hydrogen. Insects 2020,11,
         890; doi: 10, 3390/ insects 11120890 www.mdpi.com/journal/insects


アキアカネの配偶行動 (2)

  精子置換はいつおこなうか?  今のところ、新井論文が非常に的を得ているように思えました。このままではやはり妄想論でしかなかったことになってしまいます。そこで改めて、新井さんが述べておられる、ねぐらでのアキアカネの配偶行動を再度観察してみることにしました。           ...