福島県におけるマダラヤンマは8月下旬(だいたい8月25日前後)に繁殖地のヨシ原に飛来します。ただこれらの個体は飛来した繁殖地、あるいは周辺で羽化したものが戻って来たものではないように思います。この地域の特徴で繁殖地の池は11~5月まで水を落として池底をカラカラに乾燥させることが多いからです。こうした池から羽化は確認できません。にもかかわらず毎年、決まった時期に多くの個体が広範囲に飛来してくるのです。
不思議なことに8月に、繁殖地に飛来する個体は全てオスで、メスは見たことがありません。しかもこのオスたちも、日の出前後のわずかな時間にしか繁殖域(ヨシ原にパッチ状の小さな開放水域)で活動せず、日中はほとんどヨシ原内部に入ってしまいます。夕刻若干、水域に出てきて飛翔する個体もありますが、黄昏飛翔はほとんどありません。
上のグラフは飛来直後のオスの1日を通した延べ飛翔回数を30分ごとに表したものです。通常マダラヤンマの採集や撮影は早くて8:00ころ現地到着になりますが、この時すでに繁殖域での活動(ホバリング)は終了しているのです。ヨシ原内部を飛ぶ個体も高台からでないと確認できません。オスの出現時間はだんだん遅くなるのですが、基本的なパターンは交尾期までの約10日間は変わりません。その後色々調べて、この時期のマダラヤンマは性的に未熟の可能性があることが分かってきました。
いきなりマダラヤンマが大量に広い地域に同じ時期に未熟の個体として飛来して、しかも繁殖地で交尾前に10日もオスだけで活動していることは、何となくどこからか極めて多数の個体がいっぺんに飛来して来たのではないかと想像させます。もしかしたら、北から?
北海道では成虫の活動期は本州と同じだ、という方は多いのですが、実際 SNS ではしばしば8月上旬に繁殖地で普通に見られるという報告があがっていますし、大陸のハバロスク近郊ではやはり8月第1週の記録やウラジオストック近郊でも8月上旬の記録が散見されて、その状況は北海道と変わりません。
前の項で Aeshna mixta (ヨーロッパマダラヤンマ)の移動の中でオランダの観察例や米国でのギンヤンマの一種の移動を紹介しました。もしかしたらマダラヤンマもそのようなどこか遠い北の地域で羽化したものが、オスだけまとまった数十のグループが南に移動して、適当な場所に数日あるいは数時間滞留してはまた移動を繰り返しながら、北関東や中部地方に飛来するのではないかと妄想は膨らむばかりです。じゃ福島や北関東や中部地方で羽化した個体はどうなるのだということをおっしゃる方も多いと思います。私も分かりません。でも案外逆に北に向かうのではないでしょうか?.....こうなると、もはや誇大妄想狂でしょうか😓
ところで、前に紹介したバルト海沿岸のヨーロッパマダラヤンマの移動を調べるために巨大な網で捕獲する調査をおこなっている例を紹介しました。このほどこの研究に関し、水素安定同位体をもちいた本種の移動元の推定を行った論文がやっと公開されました。我が国のマダラヤンマについてもそうした調査ができるといいなあ、と、内容を紹介します。
Oelmann et al. (2023) によれば、マダラヤンマの翅の水素安定同位体割合を測定するに当たって、まず複数の種類のルリボシヤンマをもちいて、地域間の年間降水量とトンボの翅に含まれる水素安定同位体割合の関係を調べたところ、両者の間に高い相関関係があることを確認しました。次にこの回帰式を基に、ヨーロッパのおけるトンボの翅に含まれる水素安定同位体割合とヨーロッパ全域の降水量の関係を調べて、ヨーロッパのそれぞれの地域のトンボの翅の水素安定同位体割合マップを作成しました(図1)。こうして測定した値からマダラヤンマの飛来元をマップに落とし込んだのです。
(Oelmann et al. 2023 より)
異なる割合(b)だとする図 (Oelmann et al. 2023 より)
飛来したヨーロッパマダラヤンマは、水素安定同位体の割合からが異なる2つの個体群からなっていて、さらに、それらの飛来時期が前半に飛来するものと後半に飛来するものに分かれることを確認しました。また、図1作成に用いた回帰式よりサンプルの分析値を検討したところ、下の図のとおり、最初に飛来が多い個体群1は、(a)の緑の地域が発生地である可能性が高いとしています。そして後半飛来が多い個体群2は(b)に示された緑の地域から発生したものとしています。ただ個体群2の発生地はあまりにも広く、この水素安定同位体の分析値だけで飛来地域を絞ることは困難だとも述べています。
図3 2つの個体群の分布域 (a)は個体群1、(b)は個体群2. 図の赤ポチは捕獲網の設置場所
赤いラインは両個体群の分布境界線、破線は A. mixta の分布北限ライン (Oelmann et
al. より)
しかし、これまで捕獲した個体がどこから来たのか、憶測の域を出なかったことを考えれば、飛来したヨーロッパマダラヤンマが全く発生地が異なる2つの個体群から成ることや、その時期別の飛来割合、捕獲されるのはほとんどオスである点、さらに何と言っても具体的な飛来元を広範囲ではあるけれど、推定できたことは大きな成果だと思います。このようにミリ波レーダーや水素安定同位体などの最新の技術を駆使して昆虫の移動に関して研究者の知りたい、解明したいという研究者の好奇心の原点を追い求め、それを実現できる海外の研究環境は何と羨ましいことか。日本も良くやってはいるけれど、まだまだ欧米のようにはいかないですね。
引用文献
Oelmann et al. (2023) Autumn migration of the migrant hawker (Aeshna mixta) at the Baltic coast. Movement Ecology, (2023) 11:52. https://doi.org/10.1186/s40462-023-00415-z.
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