2024年6月24日月曜日

生態学の理論を実証するアオモンイトトンボ(2)

 (2)何が分布境界(北限)を決めるか

 さて、前述したアオモンイトトンボになぜ分布北限ができるのかについてですが、このことに関して、トンボ以外の昆虫をも含めて、具体的なデータを示した議論は非常に少ないとうことが分かりました。アオモンイトトンボを検索すると必ずヒットする東北大学の高橋佑磨さん(現在筑波大学教授)が行った研究 ( Takahashi et al., 2016 ) をここで紹介し、なぜ分布境界線ができるかについてみていきたいと思います。

 まず論文では高橋さんは全国各地のアオモンイトトンボを収集して、その遺伝子の多様性を調べる一方、個体を計測して腹長および翼面荷重と緯度との関係を調べました。その結果、下に転載する図のように緯度が高くなるにつれて遺伝子の多様性が失われ、さらに翼面荷重が大きくなって飛びにくくなることが分かったとしています。特に緯度が北緯35°辺りから両形質が急激に変化することを突き止め、この緯度付近に分布境界線ができるのだろうと推察しています。
 一方、この研究では同属で分布が全国的なアジアイトトンボを比較対照で用いています。アジアイトトンボは各地域の温度適応が出来ていることから、遺伝子の多様性は緯度が高くなっても失われることがなく、また翼面荷重が高まる事もないことから分布境界線は見られないと述べています。
  この論文は下図にあげる基本的な論理に基づいて考察されています。この生態学的な論理は数学的な考えから導き出されていて、特に数に弱い私にはその式の意味は分かりません。
                   
                           Takahashi et al., 2016 より 

  図の説明の部分には専門用語( 例えば migration load: 分散荷重、founder effects: 創始者効果=ある個体群から新しい個体群が分かれた時、その個体群の個体数が非常に少ない場合、元の個体群より遺伝子の多様性が少ない個体群が出来ること)、があって単に訳しては意味が分かりませんでした。特にAの図はこの論文の骨子となる非常に重要な考えになりますので、変に訳したのでは問題かと思い、そのまま載せました。緯度や標高でトンボに影響する最も大きな因子は温度であることは疑いないことであると思います。それによって遺伝的多様度も高まったり低くなったりすることもあるのでしょう。ただ、翼面荷重が高まって飛びにくくなるとはどういうことなのでしょう?このことが分布拡大を妨げる要因となるのでしょうか?翼面荷重が高まって飛びにくくなったアオモンイトトンボの本来の行動が根本的に変わったりすることはあり得ないと思います。むしろ翼面荷重の点で考えれば、高速性が高まりますからある意味、逆に速く遠くに飛べて分布拡大に寄与するのでは?遺伝的多様性の減少は逆に厳しい環境への対応のため、必要な機能をより選抜・強化しているという考えは成り立たないのでしょうか?この論文では遺伝子の多様性や翼面荷重の違いが地域ごとのアオモンイトトンボの行動に及ぼす影響が示されていない点が気になります。
 とにかく分布北限(あるいは南限)がどうしてできるのか、何も知らなかった私にとって、こうした考えがあるのかということでとても共感できました。多分、アオモンイトトンボに見られる♂型メスの存在とその繁殖生態も今回の研究(分布境界はなぜできるのか)に深く関係しているのだろうと思います。
 トンボ好きの人でも生態学を学問として本格的に学んだ人は非常に少ないのではないかと思います。この論文はアオモンイトトンボという、なじみの深いトンボを対象にして、分布を妨げる要因が何なのかを明らかにしようと試みています。トンボ屋としても興味が持たれる事だと思いますので自分なりに考えをめぐらすのも、トンボを知る上で時として必要なことではないのかなあと思いました。
                   
                 緯度と遺伝子の多様性との関係 (Takahasi et al., 2016より)
                (A~D): アジアイトトンボ, (E~H): アオモンイトトンボ, 縦軸が異なる
                分析法による遺伝子の多様性指数, 横軸が緯度

          アジアイトトンボとアオモンイトトンボの腹長と翼面荷重の比較
         (A~B): アジアイトトンボ, (C~D): アオモンイトトンボ, 緑が♂, 赤が♀
           水色が♂型の♀ (Takahasi et al., 2016より)

引用文献
YUMA TAKAHASHI et al. (2016) Lack of genetic variation prevents adaptation at the
geographic range margin in a damselfly. Molecular Ecology 25: 4450-4460.
           

 





2024年6月9日日曜日

新緑の森にヒメクロサナエとモイワサナエを訪ねて

ヒメクロサナエ
 福島県におけるヒメクロサナエとモイワサナエはほぼ全県下に分布しています。ヒメクロサナエはムカシトンボが生息する山地の原流域から丘陵地の河川上流部まで広く見られ、一方のモイワサナエは山地の湿地や水路に見られます。新緑のころ、山間部の湿地を流れる細流の最上流部を訪れると、もはやそこは岩が蘚苔類に覆われ、淡い光の中、一面緑の桃源郷のような感覚に陥ります。
 ヒメクロサナエはそのような細流脇の湿った、表現が難しいのですが、木陰になる数十平方cmほどの、植物がほとんど生えていない礫~泥状の地面に♀が飛来して産卵します。                 
                      最上流域の景観 
                       
     まだ若い♂(21/05/2018 いわき市)

                  産卵場所 多くの♀が産卵にやってくる場所(赤丸)

 ♂は細流脇のフキやウワバミソウなどの低い位置の植物の葉や、流れの中の石などに止まって♀の飛来を待ちます。♂たちは次第に♀の産卵場所周辺に集まってきます。上の写真では、足跡が付いている部分が水深数cmの流れです。赤の楕円内が産卵場所となり、その場所はわずかに傾斜していて細かい礫の上に蘚苔類が繁茂していています。奥は斜面になっていて、そこから絶え間なく水が浸み流れています。
 ♀はかなり♂の監視の密度が高いにもかかわらず、頻繁に産卵に訪れますが、捕捉されることは少なく、午前中、飛来回数が多いような印象を持ちます。交尾は何回か目撃しましたが、いずれも産卵に飛来した♀が途中で捕捉されたもので、全て樹上に上がってしまい私はまだ詳細を観察したことがありません。
 本種の産卵は非常に特異で、全サナエ中、産卵管を直接地表面に付けて産卵を行うのは、本種の他に北米大陸に分布する Lanthua parvulusL. vernalis の2種しか知られていません。両種ともヒメクロサナエと変わらない姿をしています。最近、私はラオスで Davidius fruhstorfer という小型のサナエトンボの産卵を観察しました。ダビドサナエ属のトンボですから、ホバリングしながらの放卵かと思っていたら、いきなり湿った斜面に着地して産卵を始めました。こんな産卵はヒメクロサナエだけだと思っていましたから(産卵の写真はこのブログの裏ブログとして作成している Dragonfly research in Laos の 「Davidius Mystery (1)」2020年10月掲載から見ることができます)、大変驚きました。
                    
                流畔のウワバミソウで♀を待つ♂(01/06/2024 いわき市)
                        
                    木漏れ日を
受けて葉上に静止する( 同)

         ヒメクロサナエの産卵 尾端が地面に接している様子が毎回うまく撮れない (05/06/2024) 
                                                                    
                                                                          
                                                                               同上
                          
                      産卵 (01/07/2020、南会津町)

モイワサナエ
 ヒメクロサナエの生息地にほぼ重なるように、最上流のモイワサナエは写真のような環境に生息しています。一般的にはメインの発生地はもう少し下流で、少し開け明るい湿地の中を流れるような環境に個体数は多いように思います。
                   
                        最上流部の生息環境
                        
                   一般的な生息地、少し下流の湿地内を流れる
 
 南会津町の生息地は、標高750mの渓流脇の林道沿いの樹林に囲まれた湿地です。その中を幅40cmほどの浅い細流が穏やかに流れています。所々樹林がまばらになって、明るい林床が広がる場所があり、それらが山地性のモイワサナエの生息地になります。流れの中や流畔の大小の石の表面は完全に苔むして、一帯に木漏れ日が落ちる環境です。観察に訪れた6/8の場合、朝から快晴で8:30(気温18℃)にはすでに複数の♀がそうした苔むした石の上に飛来して産卵をおこないました。産卵には♀のお気に入りの決まった場所があって、何頭もの♀が同じ石の上で産卵します。最盛期には、複数の♀が放卵した卵がコケや小さな植物の葉の表面に集まってオレンジ色の粒々となって見られます。
                    
             産卵が集中する流れの中にある苔むした石、中央に♀が産卵飛翔中
                          
                ホバリングしながら放卵する. ホバリングする時間は短い
                          
                          少し若い♀の産卵
                          
         ホバリングしながらの産卵は疲れるのか, すぐに止まり, また飛び立って産卵を続ける
                         
                       産卵は1分以上続くことも多い

 しかし♂はいっこうに現れず、9時過ぎに漸く流畔の葉の上に姿を見せました。ここでは陽が射さないと♂♀とも姿を見せません。陽が射すと樹上から降りてきます。開放的な湿地の個体と違って、この樹林内のモイワサナエは非常に敏感で、♂は特に待ち伏せ場所となる流れ内の石や、水面近くの葉などに飛来した直後は少しの動きで、再び樹上に上がってしまします。良く観察しているつもりでも、いつの間にか足元や直ぐ近くに飛来していて、♂どうしの争いに飛び立って初めて気が付くということが度々ありました。♀は大体産卵場所付近に飛来した時、♂に捕捉されることが多いようで、水面や流れ脇の茂みに団子状態となって落下します。そうしたペアはすぐに交尾態となって樹上にあがってしまい、まだ交尾行動を観察したことはありません。
                    
                     木漏れ日射す石の上で♀を待つ♂がみられる
                          
         
                          ♂を拡大してみる
                         
                       畦畔のイラクサの葉上で♀を待つ

                     産卵のために飛来した♀を
捕えた♂

 観察している細流は山肌から浸み流れる水や小さな沢からの沢水が集まったもので、流長はせいぜい200mほどです。ここのモイワサナエはこれまで述べてきた樹林内の個体群と、その下流の明るく解放的な湿地に住む個体群の2つがあって、樹林帯の個体は湿地のそれに比べ、大きさがかなり小さいことが分かりました。おもしろそうなのこの辺に注目して観察を続けたいと思います。




  
             
 
 
 











  


アキアカネの配偶行動 (2)

  精子置換はいつおこなうか?  今のところ、新井論文が非常に的を得ているように思えました。このままではやはり妄想論でしかなかったことになってしまいます。そこで改めて、新井さんが述べておられる、ねぐらでのアキアカネの配偶行動を再度観察してみることにしました。           ...