福島県における春のトンボといえば、流水性では渓流の覇者ムカシトンボ、止水性では言わずと知れたオオトラフトンボが挙げられます。中部以北の地域であれば皆そうかも知れませんね。福島県で成虫が確認される池沼はかなり広範囲に、浜通り地方を除いて全県下に点在しています。特に、南会津、北塩原村や猪苗代湖周辺には個体数が多い場所があります。かつて、五色沼近くのレンゲ沼は本種が多産し、絶好の観察地・採集地でしたが、ブラックバスが放されてからは、ほとんど見られなくなってしまいました。
先日、仙台のTさんからオオトラフトンボが羽化しましたと連絡を頂き、ずいぶん早いので場所を聞くと本県の意外な場所でした。ぜひ観察したいとお願いしてご足労いただきました。
オオトラフトンボの羽化は会津地方だと、5月の連休明けで、積雪が多い年にはさらに1週間ほど遅れるのが一般的でしたが、ここ10年ほど確実に早まっていて、予想が外れることも出てきました。今回Tさんからの連絡で予想だにしていなかった、4月下旬の記録が出てしまいました。Tさんは当日1頭の羽化を観察し、さらに1頭が上陸して歩いているのを確認したそうです。
4月30日、待ち合わせ時間よりも少し早く現地に到着しました。風が強かったほかは快晴で気温もまあまあ、早速沼を覗いてみました。が、なーんにもいません。特別変わった沼でもありませんが、周囲には樹木が接し、広く開放水面が空いています。さらにスイレンなどの浮葉植物が広く見られ、なるほどオオトラフトンボの生息環境としては申し分ないように見えます。時間は8時20分、とりあえず沼周辺を歩いて、経験から羽化場所はあの辺かな、などと考えながら戻ってみますと、いつの間にかたくさんのコサナエとエゾイトトンボが羽化し始めたではありませんか、しかしオオトラフトンボはまだなようです。
羽化最盛期のコサナエ
間もなくTさんが到着しました。オオトラフトンボが羽化した場所等を見て回りました。時間はすでに10時近くなっていました。ふと沼の杭を見るとその上を大きな幼虫が歩いています。しばらく見ていましたが、なかなか定位しそうもなく歩き回っていたので、他に上がってきてはいないか見て回ることにしました。これ以後、オオトラフトンボの幼虫が次々に上陸し、結局、8頭を昼前までに確認しました。しかし、定位するまで延々と歩き回り、全てを見ているわけにもいかず最終的に羽化を確認できたのは4頭(3♂、1♀)でした。残りはどこにいったのか分からなくなってしまいました。少なくとも水辺近くで定位して羽化した個体はないようです。
しかしオオトラフトンボはなぜ、羽化の時、これほど歩き回らなくてはならないのか?今回、羽化に至るまで最初から最後まで確認したのは2匹でした。これらは最低でも10m程度は歩いています。オオトラフもそうですが、オオヤマトンボも定位するまで歩き回ります。なぜなのでしょう。
同じ沼には多数のコサナエが羽化していて、同所の岸の杭や構造物の壁面で集団で羽化するものが多数みられました(上の写真参照)。これらは羽化すると次々に杭の上面に上がり翅を広げて翅が固まるのを待ちます。この頃になると、近くに野鳥(ヒヨドリ)が集まってきます。そしてコサナエが飛び立つと、次々にあっという間に捕食されてしましました。一方、ヨシの群落内で羽化する個体も少なからず見られました。これらは移動することなく、ヨシ群落内部で翅が固まるのを待っていました。周りは水面で移動は不可能です。翅が固まると次々に飛び立っていきました。でもヨシ群落にはヒヨドリが止まる樹はありません。ヒヨドリの攻撃を受けずにヨシ群落のコサナエは無事に沼を離れていきました。
ヨシ群落内で羽化するコサナエ
トンボの生き残り戦略はどのステージでも働いて生存率を高めようとするはずです。しかし、そうとは言えオオトラフトンボは羽化までにほとんどの仲間を失ってきました。わずかに残った、大切な次世代を繫ぐ新成虫をなんとしても無事に羽化させなくてはならないはずです。そのためには無抵抗になる最も危険な羽化時にまず捕食性生物から身を守る必要があります。コサナエのように、いっぺんに多数の個体が羽化するのであれば、特定の場所でまとまって羽化して捕食されたとしても、繁殖に十分な数の個体は残るでしょう。さらに、コサナエは羽化場所を鳥などの捕食者が近寄れないヨシ原内部でも羽化して、捕食されるリスクを分散しているのではないかと思います。
しかしオオトラフのようにはるかに少ない数しか羽化しない種類は別な羽化戦略を選ぶはずです。それは羽化行動の自由度の高さが寄与しているのではないかと。水辺で一斉に羽化することはオオトラフトンボには危険でしょう。大きな体が目を引きます。開放水面を初飛行するのは自殺行為です。数頭の犠牲はこの沼の繁殖にとってバカにならない損失でしょう。ヨシ原なら身を隠せます。ですが、あの足の長さはどうにもなりません。密生した根や背の高い茎さらに落ち葉の間を移動するには不適です。そこで、てんでばらばらに、時間差をもって上陸し、一部は水際で、一部はさらに水辺を離れた場所を目指す、つまり羽化場所の広範囲な分散です。
どうでしょう、この考えは? 日中、上陸するのはむしろ夜間地上徘徊型の大型昆虫類や小動物の捕食を避けるためではないでしょうか、しかも上陸時間は今回の観察でも10時から12時の間(Tさんは午後2時近く、幼虫が歩行していたのを確認しています)で、完全にばらけています。こんなに羽化の時間帯が広い種類はあまりいないのではないでしょうか。
このへんの考え方について数学が得意な方は、その生存率をいろいろな条件を仮定しながら数理モデルで表現できそうな気がします。もしかしたら個体群生態学の中で、すでに扱っていそうな気もします。本当に今回観察されたオオトラフトンボの羽化行動が生存率を高めることになるのか?もっと精緻にデータを取っていけばその可否が判断できそうに思います。オオトラフの羽化行動はその意味で良い研究題材になるのではないかなあ、と思います。
Tさんによれば、この生息地で成虫がみられるようになったのは最近のことで、羽化の例は以前に1例見ただけだそうです。もちろんこれまでに雌や産卵は目撃したことはないそうです。ですが、オオトラフトンボの雌は他種の雌と同じく、積極的に新規生息地を自ら開拓し、意外な場所に産卵していることがこの沼の例からも分かります。
近年の温暖化が本種並びにその生息地にどのような影響を及ぼすのか注視していく必要を感じます。また、この沼で中旬ころの配偶行動や産卵が観察できて、今後安定した生息地になるのかも興味が持たれます。
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