これまでマダラヤンマの♂をしつこく観察していると、池に初めて飛来した後、しばらく交尾しないことが分かってきました。同時期に♀は日中、高速で飛び去る個体や夕暮れや強風時に池の周りの木々にまとわりつくように飛翔しながら小昆虫を捕食する姿が見られ、いないことはないのです。
♂の交尾は初めて飛来してから、年によっても違いますが10~14日後に初めて観察されるようになります。また、産卵はさらに1週間以上遅れるようです。
ここまでは、くどいようにこのブログに書き続けてきました。今回はなぜ♂は初飛来後にすぐに♀を見つけて交尾しないのかを性成熟の面から調べてみようと思いました。
このページは上述の内容を踏まえて先月おこなわれた日本トンボ学会において講演したものです。その後、トンボ仲間から良く内容が分からなかったとか、出席していないので要旨を送ってほしいという要望があったので、このブログで内容をお伝えして参考にしていただけたらと思います。いろいろ意見をもらえたら有難いです。
上図のように、問題にしている時期を赤で示しました。この時期の♂は繁殖場所へ飛来してホバリングや探雌飛翔を行います。また♂の体は外見上、生殖期の個体と全く色彩や体の硬さなどに違いはありません。まあ、一般的に言って成熟♂であるとするのが妥当だと思います。でも交尾は観察されません。なぜだろう?と。
そこでまず♂の飛翔行動を調べました。特に、初飛来直後の飛翔行動は他の時期に比べて際立った特徴があるのかを見てみました。発生期間を4つに区切って♂の飛翔個体を、開放水域とその奥のヨシ原内部の区域に分けて、それぞれを飛んだ延個体数を記録しました。開放水域は奥行き約5m×長さ20mの広さ、ヨシ原の方は繁殖域の奥で、同じ広さを対象にしました)。観察は観察域が一望にできる池の堤からおこないました。
結果は上のグラフのとおりです。飛来直後は早朝に開放水域(以下水域)に出て活発にホバリングを交えて飛翔します。しかし、短時間で水域から姿を消し、その後夕方まで姿を現わしません。ですが、ヨシ原の中には散発的に飛翔する姿がかなり認められ、それは交尾が観察される前まで続きます。ところが生殖活動が開始されると劇的に水域で活動する個体が増え、同時にヨシ原内部での活動も増加します。しかしその後観察される個体数は日ごとに急激に減少して、メスが産卵盛期をむかえるころには水域、ヨシ原共にわずかな個体数しかみることが出来なくなります。
(図をクイックするとやや鮮明になります)
水域ではそこで縄張り飛翔する♂が侵入してくる♂を排除します。追い出された♂の多くはヨシ原とどまるために、ヨシ原での個体数が増えるというのはあたり前ではないか。という考えも当然でて来ると思います。しかしヨシ原の上でも多くの個体がホバリングを交えた活発な行動が観察され、さらに水域に縄張り♂が居ない時でも、それらは水域に出てこないことが多いのです。また縄張り♂もその縄張り継続時間は非常に短く、すぐにヨシ原内部に移動することなどから、交尾、産卵をも含む主な生活圏はヨシ原なのではないかと強く思います。
一方、図鑑や解説書にはマダラヤンマは朝夕に活動して、特に昼前後に活動が不活発になる。そしてその理由は日中の気温が高温であるからだろうと書いてあるものがあります。本当にそうか?上の4つのグラフを見ると、時期によって多少は異なりますが大体11:00~ 14:00時は不活発に、特に水域ではより姿が見れなくなることが分かりました。しかしグラフからはある気温以上になると活動が抑えられるというような影響は認められず、昼間に飛ばなくなるのは、本種にもともと備わっている性質なんだろうと思います。
また良く、マダラヤンマの採集や撮影をやっている人の間で、本種は朝何時から飛び始める等々が話題になります。これまでのデータで見てみると、以下のようになります。
さてここからが本題です。♂の飛び方の特徴は、飛来直後から交尾前までの期間は早朝2~2時間半ぐらいしか飛ばず、以後夕方まで全く水域を飛びません。この様に他の時期の行動とは異なることがわかりましたので、この時期の♂は見かけは成熟しているのですが、性的に成熟していないのでは?という疑いを持ちました。
そこで以下の方法でそれを探ろうとしました。
1 体重を測ってみる
この時期の♂は日々、ホバリングや飛翔することで飛翔筋を鍛錬し、同時に生殖細胞を成
熟させるのでは?飛翔筋の発達は全体重の相当量を占めるので、もし性成熟が必要である
なら飛翔によって筋量の増加が見られるのではないでしょうか。
2 ゲニタリア内における精子の確認
成熟して交尾していればゲニタリア内に精子が残っているものと考えて、下の図の赤矢印
の時期の♂を捕えて解剖して調べました。
マダラヤンマのゲニタリアはヤンマ科の中でもオーソドックな形をしていて、全部で4節から成っています。移精行為によって腹部第9節の生殖弁から送られる精子がゲニタリア第2節と第3節の間にある精子取り入れ口から基部の第1節内の貯精室に送られます。第1節内には巨大な収縮する筋肉組織が収められていて、それが収縮することによって第1節内の大量の体液(多分?)が貯精室内の精子を一気に第4節の精子放出口まで運ぶのです。
そこで第1節を切断して精子の有無を調べました。性的に未熟なら精子は無いと考えたのです。
3 精巣の発達度
これが最も性成熟を確認するには確実だろうと考え、上述の通り時期を3つに分けてそれぞ
れの時期の本種を採集して解剖してみました。
解剖にはコツがあって、百均で買った薄いプラ容器に同じく百均で買ったハンコ用のゴム下敷きを敷いて、水を張ります(保存しないから水道水で良い)。次に腹部を適当な位置で切断します。そして腹部第10節を解剖ばさみで外皮だけを切るように切れ目を入れて消化管をゆっくり引き抜きます。それから背開きにして外皮を昆虫針で固定して観察するのです。
精巣(上図)でつくられた精子は輸精管を通って貯精嚢に送られてます。さらに生殖弁(孔)から移精行為によってゲニタリア(副生殖器)に移されます。私はトンボの精子をまだ見たことがありませんでしたので、これだと分かるまで少し時間がかかりました。ルリボシヤンマ属の精子は典型的な精子の集まり、精子束と呼ばれる丸い塊になることが知られています。文献によればこの精子束は精巣の出口でようやくそれらしい形になって、さらに細く絞られた輸精管を通ります。この時精子束は1列になって通ることで丸い精子束になると言われています。さらにこの部位でなんらかの分泌物が生殖腺から分泌され、精子の発育にかかわるのだとも推測されています。
貯精嚢をうっかり傷つけると精子束がポロポロとこぼれ落ちてしまいます。精子束を透過型の顕微鏡で覗くと相当数の精子のヘッド部分が20程度のクリップで固定されていることが分かります。これらのクリップは苛性ソーダの希釈液で壊されて精子はバラバラに遊離した状態になります。
精子束を観察していると、生殖期に採集した個体のそれは、なにやら粘度のある物質に包まれ、お互いにくっついて、精子束の大きな塊を作ることが分かりました。それらは貯精嚢末端部に多く見られ、移精の際はこのまま塊としてゲニタリア第1節に送り込まれるものと思われます。
文献を調べると、さすがにやってますねえ、今まで観察してきたことがさらに詳しく調査されていました。 Åbro (2004) によればこの粘着物質で精子束が固まりとなることについて、これらはまだ発育途中の精子で、粘着物質から養分を得ているとされていました。さらに♀と交尾しても精子はまだ未熟で、しばらく精子は♀の交尾嚢内で発育する必要であって、♀の交尾嚢内でも粘着物質からの養分が精子に供給されるとあります。そしてある時期に達すると♀の生殖腺からの分泌液によって粘着物質やクリップが溶かされて精子が完全に遊離状態になって受精につかわれるようになるという驚く内容が記されていました。ノルウェーのベルゲン大学にはこういうの専門に研究する施設があるというのが凄いですねー。こういう研究に金出せるノルウェーの研究体制っていうのは、やっぱり北海油田の恩恵の結果なのだろうか?...余計なこと考えちゃいます。
それで、2,3の結果を表にまとめてみました。
結果的にはゲニタリア内部の精子(精子束)の有無はどの時期でも、1個の精子もその痕跡すら確認することは出来ませんでした。交尾態になった時に瞬時に移精を行っている
(どなたか確認された方いますか?)ためか、通常ホバリングしている♂を採ってもゲニタリア内には精子は無いのかも知れません。しかし生殖期の♂にも全く確認できなかったことはどういう事でしょうか?ただ解剖していた時にこの第1節からはおびただしい体液が流れ出してびっくりしました。この大量の体液によって、1個の精子束も残らないような高圧力のフラッシュイングをおこなって精子をひとつ残らず洗い流しているとでもいうのでしょうか。
(図をクイックするとやや鮮明になります)
(図をクイックするとやや鮮明になります)
精巣の大きさ・太さは8月30日ものは2個体とも発達は悪く、それ以外は十分な精子束量を確保していました。また、精子束の集団化現象は生殖期に入っている9月14日の2個体のみに見られました。
このことから、初飛来から交尾期(生殖期)前までは表面上、♂は成熟していると考えられましたが、性的にはまだ未熟であって、この間のヨシ原での活動が性的成熟に必要である可能性が高いと考えられました。
ただ、これはサンプル数が少なく、もう少し調査しないと結論は出せません。しかし来期、またマダラヤンマを採取して解剖する意欲はもうありません。この項目はこれで終了したいと思います。今回の調査から、特に海外の文献からマダラヤンマの♀がさらに遅れて産卵する理由も少し理解できたような気がします。交尾して受け取った精子がまだ未熟で、成熟して遊離するには時間がかかるとされたことは、マダラヤンマでも同じメカニズムで精子が成熟する結果だという可能性が非常に高くなりました。
さらにオオルリボシヤンマの産卵についても、♂が出現してから2週間も遅れることは、これも精子の成熟期間が影響しているのかも知れません。どうもルリボシヤンマ属には共通した性質が存在するのかも知れません。苦戦しているオオルリボシヤンマの交尾については♂の性成熟度と♀体内の精子成熟度について来期調査したいと思います。
引用文献
A. Åbro (2004) Structure and function of the male sperm ducts
and femalesperm-storage organs in Aeshna juncea (L.) (Anisoptera:
Aeshnidae). Odonatologica 33(1): 1-10.
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