ミヤマサナエは津田(2000)によれば、海外では中国、韓国、北朝鮮、ネパール、ロシアに分布するとされていましたが、最近かなり南のベトナムからも得られました(Kompier, 2015)。日本では北海道からは記録がないらしいですね。ロシアや朝鮮半島にあって北海道にいないのも解せません。福島県では全県下の平地を流れる主要河川に広く分布し、6月から9月まで成虫が見られます。特に8月中旬から9月中旬にかけては各河川に個体数が多いように思います。このトンボはわりに川幅が広い下流域の護岸された堤防なんかに止まっている姿をイメージするのですが、実際に歩いてみると、中流の川幅が広くなく流畔が岩で、石が川面に露出したような河川にも結構いることが分かります。
1.止水域での発生
かなり前のことですが、福島県中部の天栄村のキャンプ場に家族と出かけた時のことでした。キャンプ場には併設してかなり大きな人工湖があって(写真上)、マスのルアーフィッシングが楽しめます。周囲が歩けるようになっており、朝散歩していた時に岸部にミヤマサナエの雄が点々と止まっていることに気が付きました。最初は未熟な個体かと思っていたのですが、全てが縄張り占有しているではありませんか。雄は時折湖面を飛んで、他の雄と小競り合いを繰り返します。注意して観察していると、湖面を高速で横切っていく雌と思われる個体や直径2,30mの円を不規則に描いて間欠打水産卵する雌もわずかですが観察できました。ミヤマサナエが止水域で産卵?よくよく見れば、まだ羽化殻が湖岸の杭に残されていました(写真 下)。この人工湖は標高700mにあって、流れ込む小川は近くの湿原や山から流れ下る多くの小規模な流れがあつまったものです。これらのことから、人工湖の上流で産卵がおこなわれる可能性は低く、ミヤマサナエはこの人工湖で発生しているものと考えられました。このへんのいきさつは福島虫の会会誌に投稿してあります。しかし、その後なかなかミヤマサナエのためだけ観察に行くのは、という思いがあって行けずじまいでした。
今年、十数年ぶりに思い切ってミヤマサナエは健在なのか確かめてみることにしました。8月10日当地に行ってみると、個体数こそ少なかったのですが、相変わらず遊歩道に陣取って縄張り占有行動をしている本種を確認することができました(写真下)。どうやらこの場での発生は、一時的な発生ではなく、本種本来の生態の一部で、こうした止水域の環境でも発生を繰り返すことがはっきりしました。
ミヤマサナエが湖や池沼に産卵、羽化し、雄は護岸で縄張り占有行動を示す報告はこれまであったでしょうか?全国の同好会誌の記事にあたることはできませんが、主なトンボ専門の会誌を調べてみました。諏訪湖や琵琶湖で本種が羽化することは報告されていますが、産卵するのかについては不明でした。ただ、諏訪湖ではミヤマサナエが湖岸で縄張り占有するというブログの記事が一つ見つかりました。本来、流水性のサナエ類、例えばホンサナエやアオサナエは場所によっては湖に普通に産卵することが報告されています。こうした場所に住むサナエ類にとってはこれが当たり前の配偶行動であって、産卵なのでしょう。トンボの産卵場所の選択性は流水性のサナエ類をも含めて、極めて幅が広いことは間違いないでしょう。一概に、このトンボの産卵域は流水であるとしてくくることは、本質を見失う可能性があるかもしれませんね。それは例外ではなく、多様な産卵戦略の中の一つなのだと。
2. 河川上流部での産卵
ミヤマサナエの産卵方法は河川環境によって大きく2つのパターンに分かれるのではないでしょうか。河川下流部のような開放的で川幅が2,30mと広く、水深があるような場所では、コンクリート護岸や堤防で卵塊を作った雌が、川面を広範囲に不規則に飛び回って数回、間欠打水産卵します。一方、中流域の川幅が数メートルで流れが速い場合、雌は川岸の石や砂地あるいは流木などに止まって卵塊を作り、岸部の浅い場所でホバリングしながら数回打水産卵してはまた、同じ場所に止まり、再び卵塊を作ってホバリングしながら同所に同様な産卵を数回繰り返す産卵です。
昨年コシボソヤンマの産卵を観察していた時です。この場所は、春はニホンカワトンボやミヤマカワトンボさらにダビトサナエが多く、河川上流部で渓流的になり始める場所にあたります(写真 左)。川幅は1.5mで流速は結構あります。コシボソヤンマの飛来に備えていましたところ、突然目の前の流木にヤマサナエの雌?が飛来して卵塊を作り始めました。よくよく見れば、これはミヤマサナエです。ミヤマサナエはおもむろに飛び立ち、ホバリングを交えながら川面を飛び回ります。そのうち岸部に近い場所でホバリングしながら、数回打水産卵し、すぐ目の前の岸に止まりました。そして再び卵塊を作るとまた同じ場所に同様な産卵をおこなって、また止まる。この動作を数回繰り返し、最後は少しホバリングしたかと思うと、飛び去って行きました。この間1分はなかったような気がします。このようなやや渓流的な環境でミヤマサナエが産卵したのに私は少々びっくりしたのです。
ミヤマサナエの河川上流域での産卵. 上から順に.これを数回繰り返す.
2019.8.24 郡山市逢瀬川上流
ミヤマサナエの産卵生態については報告された事例が意外と少なく、特に産卵場所については、今回のような上流域での観察例はほとんどありません。しかし喜多・和田 (2020)*は平地の水田地帯の狭い農業用水路で産卵を観察していることからも、本種の産卵場所については上述の人工湖での産卵を含め、複数の選択肢を持っていることは間違いなさそうです。私は7月上旬浪江町請戸川河口から2kmほど上流で本種が産卵しているのを観察したことがあります。本来ならこの時期、本種は羽化後、山地に移動しているはずですが、早期に羽化した個体はアキアカネのように平地に留まり成熟することもあるかもしれません。本種の生態については産卵をも含め、まだまだわからないことが多いように思います。
* 喜多英人・和田茂樹 (2020) 狭い水路におけるミヤマサナエの産卵. Aeschna 56: 7-8.